haveとdoとbe 2
続きです。
そこで、be動詞である。
「何を持ちたいか」、「何をしたいか」ではなく、「どうありたいか」。
これであれば、そこに置く言葉にもよるが、「いつか、どこかで」ではなく「今、ここで」それを達成することができる。
そして「今を生きる」ことを目的とし、人生を達成と充足の連続として生きることができるようになる。
自分の場合、三つの「こうありたい」がある。
・目の前の人を大事にする自分でありたい。
・自分にウソをつかない自分でありたい。
・まわりに感謝をし、感謝をされる自分でありたい。
これらであれば、自分がそうしようと決めさえすれば、その瞬間から自分の人生の目的を達成することができる(3番目は、感謝してくれる他者が必要だけれど)。
不思議なもので、こうした自分なりのbe動詞を見つけられるようになって、逆に言えば、そういう自分であれる限りdo(すること/仕事や職業)は何でもいいと思い切れるようにもなった。
それが学校の先生でも、ゲームクリエイターでも、スポーツ選手でもなんでも。
なぜなら自分にとっては、「何をやるか」よりも「どうあるか」の方が重要だからだ。
ただ、そういう自分であろうことを許してくれる職場環境や、職業上の向き不向きはあるのかもしれず、そういう点でカフェの店主という仕事は、そうありたいと思う自分であることを仕事上でもまさに求められる仕事であるという点で、自分にとってこれ以上ない仕事でもあった。
そして、beの充足は、doの挑戦への前向きな前提条件ともなる。
根っこのところで、自分は自分でいいんだと思えていると、少々の失敗ではたじろがなくなる。
思うようにお店の売り上げが上がらなかったり、企画したイベントが不発に終わったりしたとしても、それはカフェ店主としての自分の「職業技術」だったり「機能性」が十分なかったからなのであり、自分の「存在」そのものを否定しなくてもいいんだと思えるからだ。
beが満たされている限り。
その上で結果を振り返り、反省し、次はもっとうまくやってやろうと再度挑戦しようという気にもなる。
そうして、ちょっとずつでもdoの達成を積み重ねていくことで、自分のありたい姿もより信じられるようになっていく。
その関係を僕は、beの充足を根っことし、具体的な行動・挑戦(do)を幹であり枝とする樹形のように捉えている。
あなたの中の種が、beの根っこを生やし、doの幹であり枝を育てていく。
根っこが育つことで幹や枝が育つように、幹や枝が育つことで根っこもいっそう育つ。
それらは、お互いがお互いを必要とする関係だ。
その過程では時に枝が落ち、幹が傷つくことだってあるかもしれないが、ただそれで全てがゼロになるというわけでもない。
それでもそこに根が残っていれば、またいつだってやり直せる。
そうしてその人なりの、その人にしか描けない樹形をなしていく。
最後までお読み頂きありがとうございました。