haveとdoとbe
先日紹介した、「続・ゆっくり、いそげ」
その中で、特に共感度の高い部分を抜粋します。
以下、抜粋
人は幼い頃、自分の人生の目的地を動詞のhaveで考える。
あのぬいぐるみが欲しい、新しいスマホが欲しい、かわいい彼女が欲しい(こうしたことをhaveで捉えるのも幼さの一面だろう)と。
成人し、就職活動をするような段階になっても、意外にこうした欲求から脱皮できていない学生に出会うこともある。
固有名詞を出して恐縮だが、、「JTBに就職したい」「全日空に」「三菱商事に」という就職活動が、そこで何をするか(do)というより、会社のブランドが欲しい、その会社の名刺が欲しいというレベルにとどまっているケースがままあるように思うのだ。
あるいは、年収の高いところに勤めたいという欲求。
これは端的に言えば「お金が欲しい」ということなわけで、これら含めてhaveの欲求と言える。
そこから少し大人になると、人生の目的地を動詞のdoで考えるようになる。
「発展途上国に行って学校をつくりたい」、「ゲーム会社に入って大ヒットゲームをつくりたい」、「スポーツ選手になってオリンピックに出場したい」など、通常、「君のやりたいことは何なのか」と問われる時は、こうした答えを期待されてのことが多く、自分が苦しんだのも、こうした問いだ。
そしてこうした「やりたいこと」の中でも、頑張ってのたどり着けるかどうか、到達の難しそうな目的地は「夢」と呼ばれ、「夢を持とう」、「夢に日付を入れよう」と奨励されたりもする。
ただ、こうしたdoで人生のゴールを定義することの辛い部分は、多くの場合、それらがすぐには実現できない事柄であることだ。
努力と研鑽を積み上げて、貯金もして、いつの日かきっと、、、。
この道のりを図示しようとすると、ピラミッドのようなイメージになる。
つまり、未来のある一点に向けて、自分の人生の大半を振り向けていこうというような具合に。
こうした考え方にももちろん意味がある。
こうしたアプローチを取るからこそ、人類はその歴史において数々の偉業を成し遂げてこられたのだろうし、そうやって自分を追い込むからこそ引き出される人間の可能性もあるだろう。
また、僕自身にも夢はあり、それはそれで僕の中の大事な部分だ。
ただ思うのは、このアプローチが行き過ぎると、来年のために今年はあることになり、来月のために今月はあることになり、明日のために今日はあるということになりかねないということだ。
つまり、未来のために、今が手段化してしまう。
また、達成したいゴールイメージを強く持つということは、常に今の自分を「達成できていない自分」というマイナス状態におくことにもなり、その精神的な辛さもある。
つまり、人生を不足と未達成の連続にしてしまいかねないのだ。
すべてを投げうって、そこまでの道程をすべて手段化してでも、これを成し遂げさえすれば幸福な人生であるというような、「究極の人生の目的」があれば話はまた別なのだが、実際には人生はそんなロールプレイングゲームのようなものではない。
次回に続きます。
最後までお読み頂きありがとうございました。